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「私の出産」~母から子へ伝えたい言葉~

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ひーママさん 020

2024.10.07

ひーママさん 020

繋がれたバトン。愛おしい愛おしいあなたへ。 愛おしい愛おしいあなた、パパとママは幸せだよ。  親孝行はもう十分だよ。 私たち夫婦は、4年の遠距離をした末に結婚をしました。お互い子供が好きで赤ちゃんを待ち望んでました。 でも、なかなか授かることができず私は病院へ通うことに。 色々なことを試したがそれも難しく お薬の影響で体調が優れなくなりました。 原因も分からず、自分を責めました。 お互い話し合い、病院を替えることにした。 そこで分かったのは男性不妊症だったこと。 世の中、不妊症といったら誰もが女性というイメージが多い。主人は自分を責めた。 でもね、パパとママはあなたに会えるまですごく頑張ったよ。 一緒に運動したり、食事改善したり 喧嘩をしたり泣いたり、先が見えないことに不安になったりしたけど支え合ってきた。 顕微受精することになり、2つの受精卵ができた。細胞分裂からみてきた我が子たち、それはもう愛おしくて愛おしくて生まれてきたらどんなに愛おしくなっちゃうんだろうと夫婦で話しをしました。 一つ受精卵を使い私の身体に移植。 ソワソワしながら毎日を過ごし、 パパに内緒で判定を聞きに病院へ。 先生から妊娠してますね。と言われた。 その日は曇り空だったけど、 私の中では虹に見えた。 先生からは98%大丈夫と言われて 次の日パパに報告した。 2人で泣きながら喜んだ。 次は一緒に病院に行こう!って伝えた。 診察の日、赤ちゃんのお家がしっかり見えた。順調だねと。 また診察の日、先生がうーーんと言った。 赤ちゃんがうまく成長していないかもなと。 違う日に診察したが、やっぱりダメだった。 何もしなくても涙が出た。98%大丈夫って言ってたじゃん、、、、。悔しくて悔しくて、ただただ涙出すことしかできなかった。 お腹にいる赤ちゃんも、うまく外に出れなく手術をすることに、私は手術台の上で赤ちゃんと離れたくないと大泣きした。 退院して、身体を休めることに。 その間に、パパとママは子供ができたら小さいうちは遠くに出かけたり外食することは中々出来なくなるからと旅行に行ったり美味しいものを食べたり夫婦2人の時間を満喫したよ。 そして、最後の受精卵をまた移植することに挑戦した。 奇跡的に着床し妊娠をした。 でも不安は尽きなかった。 毎回の受診で神様にお願いをした。 お願いです。無事でいて下さい。 御守りを握りしめて。 すくすくと育ち8月の真夏の日 あなたは大きな産声をあげて産まれた。 出産は想像以上に大変だった、パパもまだ立ち会うことができない現状で 不安でいっぱいだった。 あー、産まれた。息してる。えらいよ。お利口さんだ。頑張ったね。もう親孝行は十分だよ。 会いたかったよ。ありがとうありがとう。パパとママのところに来てくれてありがとう。一生守っていくね。幸せにするね。大好きだよ。 言葉に言い表せないくらい宝物だよ。 あなたのお兄ちゃんかお姉ちゃんも見守ってくれてるからね。 私たちの治療に関わってくれた皆様に感謝をして。 愛おしい愛おしいあなたへ。

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晴れヨーカイさん 019

2024.10.07

晴れヨーカイさん 019

親になるということ 親になって初めて持った感情といつか親になるかもしれないあなたへ 親になるってなんだろう? まだ新米親の私には難しい問題だけど、いつかあなたにも話したいから考えてみるね。 私はあなたが産まれる前、パパととっても楽しい毎日を過ごしていました。子どもはできれば欲しいと思っていたけれどなかなか授かることができず、このまま2人で過ごす人生も良いかなと思い始めた頃に妊娠が発覚。 本当に本当に本当に嬉しかった。 妊娠中は1ヶ月に1度の検診が待ち遠しくて、毎日生きてるかな?って心配してたよ。でも胎動が分かるようになって、痛いくらい毎日蹴られて、本当にお腹の中に子どもがいるんだって不思議な感覚だった。 よく「母親は子どもが産まれる前から母親という自覚がある。でも父親は産まれてからじゃないと自覚が生まれない。」みたいな言葉を聞くけど、私も産まれるまで全く親になるという自覚はなかったと思う。 初めての子どもだし、これから自分の人生がどうなっていくのかが分からなかった。楽しみでもあり、不安でもあった。 2022年2月1日。あなたが産まれて、もうあっという間に3年近く経つね。いまのあなたから見た私はどんなだろう。大好きだよ〜っと鬱陶しいくらいハグをしたと思えば、怖い顔で思いっきり怒ったり、とっても忙しそうに見えてるかもしれないね。 私自身も自分にこんな感情が生まれるなんて思ってなかったよ。 寝顔を見て可愛すぎて泣いてしまう時。 大人気なく意地を張って怒ってしまう時。 まだ先の巣立つ時を考えて寂しくなってしまう時。 美しい感情もあれば、悲しくて苦しい感情もある。全部あなたがいないと経験しなかったかもしれない感情こそが、親になるということなのかなと今少しだけ思う。色んな感情や想いが溢れる毎日は刺激的で、新鮮で、もう1度新しい人生を過ごしているような感覚になる。自分も知らない自分がまだいることにびっくりする時もあるけれど、私は親になった自分も好きだなと思ってるよ。 この先あなたが親になる人生を選ぶかは分からないけれど、 「親になるってどう?」といつかあなたに聞かれたら、うだうだと大変だった時のことを語りながら、最後に全力で言いたい。 「さいっっっこうに幸せだよ!!!」 こんなにも愛おしくて幸せな時間がまだ人生にはあったのかって本気で思ってるし、もうあなたのいない人生なんて考えられないから。 産まれてきてくれて、私を親にしてくれてありがとう。こんなに幸せにしてくれて本当にありがとう。毎日毎日思ってるけど、いつかこの想いがあなたにも伝わりますように。

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すぴさん 018

2024.10.07

すぴさん 018

一生懸命生まれてきてくれてありがとう ままはずっとあなたの味方です。これからも一緒に乗り越えようね。 俳句と作文 「念のため帝王切開の準備をして!」「赤ちゃん苦しいからお母さんゆっくり呼吸をしましょう」「赤ちゃん元気だからね」次々にかけられる緊迫感のある声。あなたがお腹の中で生まれる準備をしてくれていたとき、分娩室の空気が変わりました。 計画無痛分娩だったけれど、ママは麻酔が効きすぎて、陣痛が弱くなって、あなたは出てくるのが大変だったみたい。疲れてしまったあなたをみんなでこちらの世界に連れ出そうと必死でした。頑張って出てきたあなたは泣かなかった。おめでとうと声をかけられたけど、なんで泣いてないの?死なないよね?胎内であんなに元気だったのに?と頭の中は、はてなでいっぱい。必死に蘇生する先生の姿をただ見守るしかありませんでした。少しして小さな声で泣いてくれたけれど、すぐにNICUに入院することになったね。まさか生まれてニ時間で一人で救急車に乗らせてしまうとは思いもしませんでした。 出産した次の日からあなたに会いにNICUに通いました。保育器に入った小さなあなたは細い腕に管がつけられて、それでも手は力が強くて、毎日十五分だけでも会えて嬉しかった。とっても可愛かった。少し元気になってきたらミルクをあげることができたり、母乳を上げる練習をしたり、時には笑ってくれたり。あぁ、元気になってくれてるんだと思いました。 だけど、退院する三日前、主治医の先生から運動機能に麻痺が出る可能性があると告げられました。出産時に無酸素状態があったために脳に影があり、それが運動神経の付近だということでした。私のせいだと思いました。私が無痛分娩を選ばなければ、私がもっとうまくいきんでいれば…と後悔して涙が止まりませんでした。まだ生まれて二週間も経っていないのに、将来に大きな不安を残してしまって本当に申し訳ない気持ちでいっぱいでした。最後に、これから三年間は発達を大きな病院で観察していく必要があると伝えられました。 あなたは退院してからミルクをたくさん飲み、吐き戻しもたくさんしながら、メキメキ大きくなっていきました。今では離乳食もたくさん食べます。納豆は苦手だけど、トマトとヨーグルトが好物。寝返りも、はいはいも、つかまり立ちもできるようになりました。ボールを掴んで舐めたり、絵本を開いたり閉じたりもできます。声を出して笑うし、物を取られたら怒って泣くし、水遊びが大好き。 もうすぐ一歳、また大きな検査が待っています。一緒に頑張ろうね。今度は一緒に病院に行くよ。一人じゃないよ。何があっても、ままもぱぱもサポートします。これからも美味しい物をたくさん食べて、水族館や動物園、楽しいところにたくさん行こうね。 ずっと、あなたのことがだいすき。あなたのことが大切だよ。

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ゆきんこさん 017

2024.10.07

ゆきんこさん 017

命のバトンタッチ 命を削って愛してくれたあなた方の祖父母がいることを忘れないで、命の大切さや愛を知って欲しい。  長女を里帰り出産することにした私は、車で五時間ほど離れた住まいから、二歳の長男を連れて実家の両親の元へ帰りました。いたずら盛りの長男と当然のように甘えて上げ膳据え膳の私に、六十歳を過ぎた両親への負担は大きかったことを、あの頃の私は思いやれなかったことを反省しています。大事にしすぎだったのか、予定日を五日も過ぎ、陣痛促進剤で産むことになりました。  陣痛促進剤を打ってあっという間に陣痛がきて、お昼休みを取っていた医師の到着も間に合わずに長女は産まれました。3600グラムの立派な赤ちゃん。よく母乳も飲んで、よく眠る親孝行の娘でした。それと比べて母の私は、出産時の負担から腰痛や痔を発症して芳しくない状態でした。しかし、もっと芳しくなかったのは両親で、初め父がインフルエンザーにかかり、次に母に移り寝込んでしまっていたのでした。だから、出産時も入院中のお見舞いにも、誰一人来ることがなく、同じ部屋の方に代わる代わるお祝いの方がみえているのを見て、寂しい思いを私は感じました。  退院時、やっとの思いで迎えに来てくれた両親でしたが、体調も回復していないとのことで顔色も悪く、移してはいけないからと娘を抱くこともできませんでした。実家では赤ちゃんのことは勿論、両親の病状も心配でした。特に母は寝込んでしまって、私が作るお粥をすするのがやっとでした。そんな心配もあってか、すぐに母乳が出なくなってしまいました。その事を知った母は、すまなそうな顔をして、「反対に面倒みてもらっちゃって、ごめんね。」と私に謝りました。顔や言葉には出さないようにしていましたが、なんでこんなことにという気持ちがなかったわけではなかった私です。両親の元で産後の私をいたわってもらって、赤ちゃんのお世話もいっぱいしてもらおうと、当然のように考えていたのです。明るく、「全然大丈夫だよ。お母さんこそ、早く元気になってね」って言ってあげればよったのに。  ミルクに替えて長女は益々いっぱい飲んで、ぐっすり眠ってくれました。飲ませた後、トントンと背中を叩いてあげて、大きなげっぷが出ると嬉しくて、安心を感じました。二歳の長男にご飯を食べさせている時、寝室で長女が泣き出しても「ちょっと待っててね、今お兄ちゃんご飯だから。」と言うと、まるで、「わかったよ。待ってるよ。」とでもいうように泣き止んで、そして「ごめんごめん、待っててくれたんだね。」と顔を見せると、ふにゃぁ~と安心したような顔をして、「待ってたんだよ~。やっと来てくれたぁ~」とでも、言ってるようでした。  インフルエンザーは、赤ちゃんにも私にも移ることがなかったのですが、母は元気が戻らず私たちは予定より早く帰ることにしました。母は、「もっともっとしてあげたかった。」と残念がりました。そして、ふとお腹に私の 手を当てました。しこりがある!私はその手に、あきらかな病巣の証を確認しました。母は、私たちが帰ってから病院に行くつもりだと言いました。そして、暫しの間長女をぎゅっと大事そうに抱きしめました。  飛行場での両親とのお別れに、私は涙をこらえました。それは、今までの甘えんぼうの私では、母が心配するだろうと思ったからです。「私も尊敬する両親のように次にはこの子たちの親として、しっかり立って行かなければならない。大丈夫、頑張るから。安心して、病気と戦ってください。気がつかなかった娘を許してください。」言葉には出せませんでしたが、その思いがありました。  それから、一年して母は天国に召されました。そして、その後一年して次女が産まれました。実家に頼ることなく、上二人の面倒を見ながら「頑張れたよ。お母さん。」

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りんりんことことさん 016

2024.10.04

りんりんことことさん 016

新しい世界を教えてくれたことねへ あなたのおかげで世界を楽しめることを知りました。お腹に来てくれてありがとう。 私は助産師です。そして、2児の母でもあって、ハンドメイドや写真を楽しむ、そんな1面もあります。私がそう胸を張って言えるように、自分の中で思えるようになったのは第1子ことねを産んで職場復帰をしてしばらくたってからでした。 私が1人目の子ことねを妊娠したのは、助産師になってちょうど1年半が経った頃。その頃総合病院に勤務していた私は毎日の忙しさ、仕事の責任の重さ、仕事の難しさ、命の重み…全てが辛くて逃げ出したくて生活に色が無いような目の前のことを必死にこなすそんな日々でした。思い描いていた助産師像にはなかなか近づけず仕事を終わらせることに、とにかく必死。本当に辛かった。 そんなある日夜勤明け、思っていたよりも生理が遅れていたので妊娠確認をしてみると陽性。最初はすごく戸惑って飛び跳ねて嬉しいとは思えなかった。でもとと(パパ)に連絡すると仕事を早退して一緒に病院へ行ってくれて待合室ではそれはそれは笑みがこぼれ落ちていて…100%の嬉しい!が伝わってきてなんだかママまでほっとして嬉しくなったのを覚えてるよ。そして、出産の日ママの血圧が上がってしまって促進剤を使っての出産。毎日仕事で見ていたはずなのにこんなに辛いのか、痛いのか、こんなに進まないのかと泣きながらの出産。正直諦めかけました。17時間かけてようやく出てきてくれたことねは小さくてあたたかくて…そしてととは嬉しく泣いていて宝物を抱くようにガチガチになって抱っこしてくれたのを見て、がんばって良かったなぁって思えました。 それから私の子育てが始まっていきました。助産師なんだからと勝手に自分を追い込んで責任感を感じて2週間検診ではボロボロ泣いて。笑 そして、ことねは本当によく泣く子で、手がかかる子だったけど、ことねと一緒にママもよく悩んで一緒に成長してきたなと今になって思います。ことねが1歳を迎えて職場復帰をしてから病院のママたちの妊娠中の不安や出産の辛さ育児の大変さ、思い通りにならない子供、いろんな気持ちを分かってあげられるようになってやっと私も助産師として少し自信がついたように思えたの。やっと胸を張って助産師と言えるようになったよ。自信がなくてうつむいてばかりだった仕事はたくさんママたちに寄り添って話を聞いて傍に居れるようになりました。そして、ことねのために最初は始めたミシンや編み物も今では時々マルシェに出たりする程にまで大きくなりました。ことねを撮るために始めたカメラも今ではニューボンフォトを撮ることに活かされています。あの頃は、目の前のことにしか視野がなくて消えてしまいたかったママの世界をこんなにも広げてくれて生きがいをくれたのはことねです。ことねは5歳になったとき「どのママにしようかな〜って考えてたら急に矢印がでてこっちってなってママのお腹になっちゃったんだよねぇ〜選べなかったんだよ〜」と笑って言っていました。嫌々来たのかい!笑とつっこみましたが、きっと神様がママにはことねが必要で急がないと消えてしまうかもと思って運んできてくれたんだと思います。野菜が食べれなくて、ママにベッタリで、2人目が産まれてからもずっと赤ちゃん返りをしてるようなことねだけど、ことねでたくさん悩んだおかげでいろんな人の気持ちに寄り添えていると思って感謝しています。苦しみを知らない人は相手に心から寄り添うことは出来ないのでママはこれからもたくさん悩んで心音と一緒に成長して行こうと思います。心音〜人の心にはいろんな音がある〜嬉しい音、悲しい音、安心する音、そんな人の心の音に耳を傾けられるような子になって欲しいと付けた名前です。ママを助けてくれたように自分も大切に、そして他人も大切に出来る子になってくれたらママは嬉しいです。いつもありがとう心音。大好きだよ。  

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大塚真貴さん 015

2024.10.04

大塚真貴さん 015

スーパーサイヤ人になった母の出産 母を強くしてくれた息子に感謝、出産まで流した涙は賜物でした 25歳までには結婚して子供を産みたい!昔からそう願っていました。そして、その通りに25歳で結婚、妊娠。いざそうなると、嬉しさ反面不安でいっぱいでした。何もかもが初めてで未知の世界 、ただ妊婦健診は毎回楽しみで仕方なかったのを思い出します。エコーでしか会えないけど、先生から「元気ですね、これはオチンチンがあるね。男の子だね」と言われ早く会いたいなぁと益々想いが強くなりました。お腹も目立ち始めてきた時、私の住む地域は雪が多くいつも以上に慎重に足元に気をつけて歩いていましたが、ドスンっと思い切りお尻をぶって転んでしまいました。とっさにお腹を庇いましたが頭の中が真っ白になり、涙がポロポロ出てきました。お腹の子は大丈夫かな、何かあったらと急いで病院へ行きました。先生に見てもらい赤ちゃんは大丈夫との事で、また涙が出てきてしまいました。 それから、春が来て桜を見て来年は一緒に見ようねぇとお腹に話しかけて夏を迎えて出産日も近づいて来ました。もう足元が見えないくらい大きくなったお腹。胎動も毎日感じて、もうすぐで会えるのを心待ちにしてました。そしてその時はいきなりやって来ました。朝、起きると何と破水!急いで病院へ連絡し、すぐに来てくださいと向かいました。破水はしたものの、まだ子宮口も開いてなく陣痛も来てなくまだ余裕の私。会話もできる状態でした。それが徐々に痛み始めたと思ったら、もう死にものぐるいの痛みとの闘い。鼻からスイカってこの事か!と身に染みて実感した瞬間でした。あれよと間に分娩台へいざ出陣!母になる為の出産と言う長い闘いへ!ゆっくり息を吸って吐いてねと看護婦さんに言われ、言われるがままにやってみましたが、わが子はなかなか下に降りて来てくれないようです。何度か吸っては吐いてお腹に力を入れてみるもまだ来ないようです。力みが足りないのか?けどただ力むだけではダメなんです。お腹に力を入れて力まないとダメなんですよね。それも、普通の力みではダメ。本当、全身の力を漲らせてスーパーサイヤ人かって並に力を増していたと思います。改めて出産って大変労力使うなぁと思いました。それでも、出てこない我が子。そんな中、周りの看護婦さんや先生が慌ただしくなりました。えっ?何?何かあったの?必死ながら脳裏に不安が立ち込めました。どうやら、後から聞いた話で首にへその緒が巻き付いており、赤ちゃんも苦しい状態でなかなか降りてこれなかったみたいです。その為、吸引しての分娩となりました。私の力みと吸引力2つのパワーが合体した時「オギャー」と太い産声が聞こえました。一時はどうなるかと思いましたが、元気な産声をあげてくれた息子。最後は嬉しさの涙でいっぱいでした。 何億個から勝ち上がり、母の元へ来てくれた息子よ。お腹の中で苦しかったであろう、それにも耐えて元気に生まれて来てくれたね。ありがとう。 そしてこれから先の人生、辛いことがあるかもしれない。でも、自分が今ここに居るのは母が居てくれたからであり勝ち上がった自分が居るからだと、励みになってくれればと願っています。  

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